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株式会社文學の森
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三省堂の『新明解国語辞典』第七版の新聞広告を読んだ。語釈の例として【恋愛】についてこう記述している。「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」とある。これはもう辞典の定義をこえて執筆者の私見である。本が売れない時代、国語辞典といえどもユニークでなければならないのだ。ところで昨今の俳句総合誌はまったく面白くないという声をよく聞く。雑誌は常に刺激的でなければならない。刺激の無い雑誌は気の抜けたビールみたいなものだ。自戒。

2012年2月号より
人はみんなふるさとがある。私の場合は、少年時代を過ごした高知県の小さな村がふるさとと呼べるだろうか。貧しく悲しい思い出しかない山村だが、その村の風景が無性に恋しくなることがある。燕が春には古巣に帰ってくるように、私は三、四年に一度、こっそり一人で“帰郷”する。飛行機、JR、レンタカーなどを乗りついで片道約四時間。村に着いても誰かを訪ねるわけではない。バラック建のわが家があったあたりを人目を避けるように散策、一時間ほど滞在してとんぼ返りで帰途につく。それだけで私の心は癒される。これを私は“故郷禁断症状”と名づけている。いつでも帰れるふるさとがあって、肉親や友人が待ってくれている人にはわからないデラシネ(故郷喪失者)の孤独感である。

2012年1月号より
古書店で野見山朱鳥の著書『忘れ得ぬ俳句』(一九五二年刊)を見つけ、立読みしていたら〈死なば世に忘らるる身か月の秋 小山良一〉という句が目に飛び込んできた。三年前に刊行した私の句集に〈死ねばすぐ忘らるる名ぞ草の花〉という句がある。あきらかに類想句だ。偶然、自分の類想句を見つけた翌々日、九月十一日の朝日新聞に稲畑汀子氏が「類句…選者もつらい」という文を、また十月十日の読売新聞に宇多喜代子氏が「類句を恐れず再考重ねて」という短文を寄せている。汀子氏は「類句の問題は俳句にとって宿命のようなもの」と、喜代子氏は「類句をおそれていては、感性が縮んでしまいます」と書いている。今月号の本誌に類句の小特集を組んだのもたまたまの企画である。 

2011年12月号より
時代小説の名手藤沢周平が、二十代の療養生活の時代に俳句雑誌「海坂」に投句していたことは知る人ぞ知る話である。周平は揮毫を乞われるといつも〈軒を出て犬寒月に照らされる〉という句を書いた。その理由を「むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句なので」とエッセイに記している。松本清張は小説家になる前は朝日新聞西部本社の広告部に勤めていた。そのころ同じ北九州市に住んでいた横山白虹の知遇をうける。清張の小説にしばしば俳句を趣味とする主人公が登場するのはその影響かもしれない。なかでも『巻頭句の女』という短編は白眉である。俳句結社の主宰が名探偵さながらに犯人をつきとめるという話である。〈わが道は行方も知れず霧の中 清張〉いかにも推理小説の作家らしい一句だ。

2011年11月号より
夏の日の午後六時過ぎ、羽田発福岡行のJALに搭乗。機窓の外に目をやると、今まさに沈まんとする真っ赤な太陽が見える。羽田空港の夕陽はいつ見ても美しい。離陸して、一時間ほど居眠りしたのち窓の外を眺めると前方の雲海の一箇所が白く発光している。そこに沈む太陽があるのだ。座席を起こして見つめていると、なんとしたことか太陽が少しずつ上昇してきたのである。あれよあれよと思うまに太陽の全容が雲の上にあらわれたのだ。夕日を追いかけるように西に向かって飛び立った飛行機が太陽に追いついたのか、それとも飛行機の高度が捉えたのか。感動して眺めていると太陽は再び雲海の中にゆっくりと沈んでいった。福岡空港に着くころ、夜の帳(とばり)がおりた博多湾の沖には無数の漁火が光っていた。

2011年10月号より
立板に水の口上よりも、朴訥とした話しぶりのほうに信頼感を抱くことがある。俳句の場合も同様である。どこかぎこちない表現だけれどそのぎこちなさが魅力の句がある。「何十年もやっていると上手な俳句はいつでも作れます」と、先師加藤楸邨から言われたことがある。巧い俳句よりも自分自身の句を作れと諭してくれたのだ。「若いころ、熊谷守一の字に憧れたことがあってね……」と話してくれたこともある。楸邨の能筆はひろく知られている。その楸邨が、いわゆる〝へたうま〟の熊谷守一の書が好きだったという話には少し驚いた。たしかに楸邨の晩年の俳句には守一の書画の世界と通じ合う諧謔味がある。へたうまは狙ってできるものではない。無欲の境地から生まれた才能の到達点であるのだ。

2011年9月号より
東京神田の古書店や大阪の古書店組合から年2回「古書目録」を送ってくる。その目録から『小説芭蕉の臨終』(沼波瓊音著、大正二年刊)という本を見つけた。小説ということに興味をもって購入したが、ストーリーはまったくお粗末。芭蕉が病床に臥せてから死去するまでの数日間の弟子たちの看病ぶりを書いているだけ。小説と呼ぶにはドラマもフィクションも無い。ところで本号の特集は「芭蕉異説 アウトロー伝説を追う」である。この企画は編集部の提案。何か意味いわくありそうなタイトルだったので、OKを出したが果たしてどんな異説新説を展開できるか? 嵐山光三郎『悪党芭蕉』(新潮社)の二番煎じではつまらない。雑誌は企画が命。そして毎号が勝負。看板倒れにならないことを念じている。

2011年8月号より
「天は二物を与えず」という。だが、高濱虚子は能楽においても天賦の才能を発揮した。虚子著『能楽遊歩』(昭和十七年刊)の序に「私は子供の時分から能楽が好きであった」と述べている通り、虚子は終生、能楽に親しんだ。「〈沈黙の文芸〉といふ言葉が私の心を強く牽きます。沈黙の力は偉大であります。俳句も沈黙の文芸であります。能楽も沈黙の文芸であります」虚子の思想の一端を表わす文である。話は異なるが、水原秋櫻子著『高濱虚子』(昭和二十七年刊)の最終章「別離」の中で、虚子から能楽会の稽古に誘われてしぶしぶ出席した秋櫻子だったが「予想どほりの苦しさで懲り懲りした」と愚痴をこぼしている。虚子から少しずつ離れていく秋櫻子の微妙な心の動きが読み取れておもしろい。

2011年7月号より
先月号の本誌に中村草田男の「楸邨氏への手紙」と楸邨の返事「俳句と人間に就て」が掲載されている。内容は太平洋戦争における戦争責任を問うものである。日本の敗戦によって自由にものが言える時代になった昭和21年は、文学、絵画、音楽などあらゆる分野において戦争責任の追求が行われた。それはまるで魔女狩りの様相を呈していた。当時、東京で暮らしていた画家藤田嗣治の自宅に或る日突然、親友の画家内田巌が訪ねて来た。喜んで招き入れた藤田に内田は「本日は日本美術協会の使者として来た。貴君は戦犯画家に指定された」と告げる。藤田は一瞬、驚いた表情をみせたが怒りもせず手料理で内田をもてなした。昭和24年、藤田はパリへ移住。二度と日本の土を踏むことはなかった。

2011年6月号より
かねてから、俳句は短歌と比較して社会的事象を詠むことが不得手だと言われてきた。天安門事件、阪神大震災、9・11テロなどのような事件や天災が起こるたびに、短歌は感情のままに表現することに積極的であった。特に大新聞の俳句短歌の投書欄においてその傾向は顕著であった。そしてその都度「俳句はものを言わない文芸だから――」と俳人は釈明してきた。俳句はことばの余白に重心を置く。秘めることによって増幅する日本人独得の美意識をたいせつにしてきたのである。芭蕉もまた「謂応(いひおほ)せて何か有(ある)」と言っている。緊急企画『3・11大震災を詠む』を特集した。未曾有の災害を題材にして、俳句はどこまで切り込むことができたのか。忌憚のない読後感をお寄せ下さい。

2011年5月号より
小学生時代の同窓会に出席してきた。同窓会というよりも老人会と呼ぶほうがふさわしい顔ぶれである。ことしから後期高齢者の仲間入りとなる。この後期高齢者という呼び方が嫌いだ。余命いくばくもありません、と宣告されたような気分になる。同様に身体障害者という呼び方も嫌いだ。「障害」を辞書でひくと「さまたげ。じゃま」とある。障害者とは社会の邪魔者だと言っているようなものだ。認知症、熱中症も変な日本語である。日本人はいつから言葉に対して無頓着になったのだろうか。人間性に欠ける言葉の氾濫が弱者切り捨ての無情社会をつくる。本年度から小学校で、来年度から中学校で俳句の授業が正式に始まるという。美しい日本語の創造と俳壇の将来のためにも朗報ではある。

2011年4月号より
私の好きな小説家の一人に上林暁(1902~1980)がいる。尾崎一雄とならぶ私小説の第一人者である。上林は60歳のときに脳溢血で半身不随となったが妹・睦子の介護と口述筆記により78歳で世を去るまで小説を書きつづけた。死の4年前、74歳のおりに句集『木の葉髪』(永田書房)を刊行している。森澄雄が生前「上林暁の句集はぼくが編集したんだ」と話してくれたことがある。病床の上林を助けて澄雄が編纂を手伝ったのだろう。その澄雄は1995年、上林と同じ脳溢血で倒れたが長男潮氏の献身的な介護により車椅子で吟行をつづけ、昨年夏91歳で亡くなるまで俳句一筋の生涯を送った。両氏とも日本芸術院会員であった。〈文芸に一世(ひとよ)をかけし木の葉髪 上林暁〉 

2011年3月号より
少年期を過ごした高知県の幼友達から雉子肉が届いた。子供のころは、裏山で鳴く雉子の声をよく聞いたものである。ケンケンと甲高く鳴くのは雄の求愛の声である。山道で雉子の親子連れと出遇ったことも何度かある。そんなとき母鳥は決して逃げることはしない。数羽の雛をかばうように引きつれて茂みの奥へ消え去って行く。春の野焼のとき、燃え盛る炎の中から翔び立つ雉子を目撃したこともある。母鳥は雛を守って吾が身に火が燃え移る寸前まで逃げないのだ。それにひきかえ人間社会は親殺し子殺しや児童虐待のニュースが跡を絶たない。親子の情愛において人間は野鳥にも劣るのかと考えるとやるせない気分に駆られる。〈父母のしきりに恋ひし雉子の声 芭蕉〉。 

2011年2月号より
「もういくつ寝るとお正月……」指折り数えて待っていたことが、あっというまに過ぎ去っていく。人は一生のあいだにどれだけ多くのことを待ちつづけ、そして“過去”という時空の彼方に置いてきたのだろうか。幼い頃の誕生日会やクリスマス。若い頃のデートや初めての海外旅行などなど。だが、齢をとるにつれてそんな楽しみがめっきり減ってきた。そこで奮起一番。今年から私も本誌の投句欄にチャレンジしてみようと考えている。先月号から投句蘭が大幅に増頁されたので、ひょっとしたら佳作ぐらいには選ばれるかもしれない。急いで投函すれば3月号に間に合う。日常の暮しの中に“待ち遠しい”という楽しみがあることは心の支えにもなる。さて、俳号はどうしようか。

2011年1月号より
本誌に好評連載中の『佐高信の甘口でコンニチハ!』は今月号から6年目に入る。これまでに登場いただいたゲストのごく一部を抜粋してみる。筑紫哲也、都はるみ、浅井愼平、檀ふみ、井上陽水、中村吉右衛門、川中美幸、小沢昭一、佐佐木幸綱、山田太一、嵐山光三郎、辻井喬、なかにし礼、加藤登紀子、大竹まこと、吉行和子、姜尚中、中島誠之助、森村誠一、櫻井よしこ、篠田正浩などなど。番外編では星野哲郎、船村徹、梁石日も。一回の休載もなく5年間続けてこられた佐高氏に深謝。来月号はプロ野球解説者の張本勲、引きつづき映画俳優の菅原文太など豪華な顔ぶれが候補に上がっている。俳句雑誌にあるまじき無鉄砲な企画ではある。
=文中敬称略=

2010年12月号より
つくつく法師の声がぱったり聞こえなくなったなあと思っていたら、今朝(9月30日)隣家の庭から「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、オーシック、オーシック」という鳴き声が聞こえてきた。心なしか弱々しい鳴き方であるが、しみ透るような声が耳の底に残った。おそらくこれがことし最後の法師蝉だろう。〈鵙に空譲る前にて法師蝉 山口波津女〉季節は移り、人の世も移り変わる。現代俳句協会青年部主催の「俳句以後の世界」というシンポジウムのパンフレットにこんな文章が載っていた。「俳句の終焉は、いつ訪れるのか。あるいは、俳句はすでに終焉しているのか」――果たしてこれからの俳句は何をめざしてどの方向に進んでいくのだろうか。

2010年11月号より
今月号は急遽「森澄雄追悼特集」を組んだ。当欄では澄雄先生の長男潮氏(「杉」編集長)について触れてみたい。95年、澄雄先生は脳溢血で倒れ左半身に麻痺が残り、歩行、会話も不自由となった。それ以来、潮氏は澄雄先生の介護に専念することになる。毎年のように近江や九州を旅するとき、潮氏は車椅子を押し、会話を取り次ぎ、食事、トイレ、入浴の世話をした。1年365日、澄雄先生のそばにはいつも潮氏が付き添っていた。それは父と子というよりも聖職者の姿のように私の目には映った。誰よりも澄雄俳句の理解者であり、誰よりも師澄雄を尊敬していたのは俳人潮氏だったのだと、今さらながらに思う。潮氏よ。これからの時間は自分自身のために、そして澄雄先生の遺志を継いで「杉」の灯を守り続けられんことを――。

2010年10月号より
作句で脳を活性化、吟行で足を鍛錬、句会で心をリフレッシュ――。俳句に親しむことで身心共に健康になれる。生き生きと自分らしく長生きできるなら、俳人にとってはこの上ない話である。事実、俳句や短歌、絵画、音楽などを趣味とする人は長寿であるという。今月号の特集「俳句で130歳まで長生き!」の企画で見落としていたことが一つある。投句の楽しみである。結社に所属して尊敬する主宰の選を受ける。結社誌が届くまでの期待感、上位に選ばれたときの感激。新聞俳壇や俳句総合誌の投句コーナーも同じである。私は、加藤楸邨の「寒雷」で俳句を学んだ。30代から50代後半までの私の生活は「寒雷」中心であった。家庭よりも仕事よりも「寒雷」が私の心の支えであり喜びであった。楸邨先生の謦咳に接したくて、毎月、福岡から東京の句会に参会していた頃が懐かしい。今の私にとって不幸なことは、投句の楽しみが無いことである。本誌の投句欄にこっそり応募してみようかと本気で考えたりしている。ただし、たいへんな難関であると聞く。はてさて如何したものか……。  

2010年9月号より
先月号の本誌で「この俳句、さっぱりわからん」という特集を組んだ。この企画は、私が日頃ぼやいている言葉をそのままタイトルにしたものである。プロローグとして編集長の林誠司と編集顧問の大井恒行との対談を載せている。句作りにおいて平明を標榜する林と難解を自認する大井との議論はどこまでいっても噛み合わない。同じ特集の中で、いわゆる“難解派”と称される俳人9名が自句自解を書いている(1名は他者の句)。その解説文がまた私にとっては難解である。この企画に対して多くの反論が寄せられるだろうが、それが本誌の狙いでもあるのだ。私の先師加藤楸邨は自身の難解俳句について問われたとき「わかるという点で犠牲を払ってでもカオスに対して体当たりしていくよりほかに仕方ない」と答えている。“カオス”を辞書で調べると「混沌。天地創造以前の状態。すべての事物を生みだすことのできる根源」とある。楸邨ならではの含蓄ある言葉だ。その楸邨に〈天の川わたるお多福豆一列〉という句がある。私にとっては永遠に解けない謎の一句である。 

2010年8月号より
岩手県遠野町(現・遠野市)に伝わる民話を柳田國男が古老から聞き書きした『遠野物語』が発表されたのは1910年。今年ちょうど100年目にあたる。柳田は日本における民俗学の開拓者として名高い。その柳田と並んで評価されるもう1人の民俗学者に宮本常一がいる。宮本の代表作に『忘れられた日本人』がある。同著の中の「土佐源氏」は宮本の著述の中で最も良く知られ、高い評価を受けている。「土佐源氏」の源氏とは、源氏物語の光源氏にちなんだもので、多くの女性遍歴をもつ馬喰(ばくろう)の告白を綴ったものである。物語の舞台は土佐檮原村(現・高知県檮原町)。四国山脈の中腹に位置する辺境の地である。昨今は坂本龍馬脱藩の道がある所として観光客が押し寄せていると聞く。ルポライター毛利甚八氏は著書『宮本常一を歩く』(小学館刊)の中で、「土佐源氏」に出てくる馬喰は宮本の創作であり、ノンフィクションではないと断じている。その一方で「文学的達成であり宮本の本懐だった」とも指摘している。「土佐源氏」の虚構は水原秋櫻子のいう〝文芸上の真〟に通じるものかもしれない。

2010年7月号より
本誌の投句欄はことし1月号から兼題部門、雑詠部門の選者が2名ずつ増えて両部門の選者は計12名となった。これにより2名以上の選者が選ぶW特選賞が増えるだろうと予測していたが、フタを開けてみると意外にそうでもない。1月号から5月号までのW特選賞は兼題で1句、雑詠で5句のみである。このことは本誌の投句欄のレベルの高さを示しているとも言えるだろう。朝日新聞の「朝日俳壇」は週6000句の投句があるという。それを4人の選者が10句ずつ計40句を選ぶ。入選率は150分の1である。仮に、朝日俳壇の選者が8名とか10名に増えたならそのぶんだけ日の目をみる句が増えることになる。全国で毎年開かれる“大会”と名のつく俳句コンクールでも同じことが言える。無名俳人の膨大なボツ句の中にひょっとしたら芭蕉や虚子の1句に匹敵するような秀句が埋もれているかもしれない。そんなことを想像するとなんだか悲しいような、わくわくするような複雑な気持に駆られる。う~ん、俳句ってやっぱりオモシロイ!

2010年6月号より
最近の月刊「俳句界」はなかなか面白いですね、と褒められることがある。お世辞半分としてもうれしいことである。私が、「俳句界」の発行を引き継いだのは2003年の5月号から。そのころ俳句総合誌は8誌あったが、マラソンにたとえるなら「俳句界」は先頭グループから大きく引き離されて息もたえだえに、どん尻を走っている状態だった。あれから満7年。途中、なんども躓いたり回り道をすることもあったが、最近やっと先頭ランナーの背中が見えるところまで追いついてきたと自負している。とは言ってもライバルは強敵ばかり。体力勝負では太刀打ちできない。ここは小出版社ならではの大胆な企画力で差別化を図るしかない。先月号の「佐高信の甘口でコンニチハ!」の中で、作家の森村誠一氏が山口誓子の句<海に出て木枯帰るところなし>を取り上げて「覚悟の句だなと思います。作家たるものかくあるべし」と語っている。身の引き締まる言葉である。出版界という大海原へ舟を漕いで出た以上、今さら引き返すことはできないと決意を新たにするものである。

2010年5月号より
NHKの大河ドラマ『龍馬伝』の影響で、ちょっとした土佐弁ブームらしい。若者の間でも「待っちょるぜよ」などの土佐弁をまじえた会話やメールが増えているとか。1950年ごろ、方言は「田舎者の言葉」という理由から、方言撲滅を目的とした標準語教育が行われた。私が通っていた小学校では「方言切符」が配られ、うっかり方言をしゃべると切符を1枚徴収されるという罰ゲームもあった。日本の高度経済成長期に集団就職で都会へ働きに出た少年少女たちは、ふるさとの訛りをからかわれて悔し涙を流した。いま、自分たちの方言を見なおそうという機運が各地で高まっている。地方へ行くと駅前にお国ことばの歓迎看板を見かける。素朴な人情味が感じられてうれしくなる。鳩山政権は「地方分権」を掲げるがその政策は心もとない。方言復活こそが日本再生のキーワードと言いたい。本誌が募集した「第2回方言俳句」の入選作が今月号に発表される。私はまだその内容を知らないが、どんな作品に出合えるか楽しみにしている。

2010年4月号より
本誌1月号の「作品六句鑑賞」欄で中上哲夫氏の次の文が目にとまった。「忌日が苦手だ。歳時記をひもとくと、忌日一覧が載っているけど、俳人にかぎらず、忌日がなかなか覚えられないのだ。その結果、忌日を読んだ句は季がわからない」――同感である。俳句は一読して感動することがたいせつ。歳時記や辞書を調べてから鑑賞となると、感動が間延びしてしまう。私が知っている忌日はせいぜい「西行忌」と「時雨 忌」くらい。「西行忌」は〈願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ〉という西行の歌と〈花あれば西行の日とおもふべし〉という角川源義の句をセットで覚えているからである。「芭蕉忌」となると、さていつだったけと考えこむが「時雨忌」というと印象鮮明である。加藤楸邨に〈芭蕉忌やはなればなれにしぐれをり〉という句がある。この句は〈旅人と我が名呼ばれん初しぐれ〉という芭蕉の句と呼応しているのだが、留意すべきは楸邨句の季重なりである。忌日の句は季重なりとなっても季節のわかることが肝要であろう。

2010年3月号より
 本誌12月号で、眞鍋呉夫氏と正木ゆう子氏が「雪女」について対談している。眞鍋氏は平成4年、句集『雪女』で読売文学賞を受賞。昨年刊行された『月魄(つきしろ)』にも雪女の句が数多く収録されている。いまや雪女の句といえば眞鍋呉夫、眞鍋呉夫といえば雪女の句と言われるほどである。一つのテーマをライフワークとして詠みつづけることは容易ではない。ことに「雪女」のような幻想世界をあたかも現実に目にしたかのように新鮮なトリックで読者に感銘を与える表現力は、小説家ならではの想像と創造の賜物であろう。たまたま手元にあった俳誌「童子」(平成21年11月号)を読んでいたら、辻桃子主宰の次の文が目にとまった。――〈甚平は鍛冶師の兄の形見かな 齋藤耕牛〉 おなじみ耕牛さんの鍛冶師ものだ。この甚平も泣かせる。一生一つのテーマで作りつづけてほしい。句作りとは一生自分にしか描けないことを描くことなのだ――眞鍋呉夫氏の「雪女」の句にも通じる評文である。俳句とは、十七音の詩を紡ぎつづけながら書き上げる大河ドラマなのだ。

2010年2月号より
 インターネットなどによる情報の多様化で活字メディアの未来は暗い。新聞王国イギリスの有力紙「イブニングスタンダード」は昨年秋から無料配布に踏み切ったという。日本の新聞社の中でも超優良企業とみられていた朝日新聞社と日本経済新聞社が2009年9月中間決算でそろって赤字という。つい最近までわが世の春を謳歌していた新聞・テレビなどのマスメディアは生き残りをかけて熾烈な競争を繰りひろげている。ましてや俳句という小さなジャンルの出版社の実情は推して知るべしである。俳句雑誌の出版で黒字を計上することは、空飛ぶ鳥を草矢で撃つようなもの。いま、俳句総合誌を発行する出版社はNHKを含めて七社ある。その中でも「文學の森」は社歴も浅く経営基盤も脆弱である。だが、会社は小さくとも雑誌づくりにかける情熱と編集内容で日本一の座を獲得することはユメではないと信じている。「夢」を国語辞典で調べると「容易には実現できないこと」とある。そのユメを追って新しい年のスタートを切ります。

2010年1月号より
 「もういくつ寝るとお正月」というわらべ唄を思い出す時節となった。俳句では「数へ日」という。いい言葉だと思う。まだまだ先のことと思っていたことが、あっというまに迫ってきて、あっというまに遠い過去となっていく。新年会の席で「もうすぐ正月が来ます」と挨拶すると居合わせた人たちはどっと笑うが、その笑いの中に“そうだよなぁ”という空気がまじっていることを感じる。加藤楸邨先生から「60歳を越えたら矢のように時間が過ぎていきます」という手紙をもらったことがある。そのころ40歳そこそこだった私はその手紙を他人ごとのように思っただけだった。数年前、筑紫哲也氏から「歳月人を待たず」という葉書をもらったときは自分のことにひきつけてしみじみ考えた。その筑紫哲也氏も1年前にこの世を去ってしまった。鬼が笑うひまもなく2010年に突入する。
数へ日の松風をきく齢かな         勝又一透
松過ぎの又も光陰矢の如し        高浜虚子
みなさまどうぞ良いお年を。

2009年12月号より
 この二、三年の間に総合雑誌や婦人雑誌がつぎつぎと廃刊に追いこまれた。雑誌は面白くなければ読まれない。俳句総合誌といえどもである。いま、俳句総合誌は七誌あるが、表紙を剥がしたら中身はどれも似たり寄ったりという批判を聞く。では具体的にどうすれば差別化を図れるか。“面白い”内容とはどんな企画か。思いうかぶ案は手垢のついたものばかり。こんなときは読者の声を聞くことがいちばん参考になる。七月号から「読者アンケート」のハガキを添付している。本誌に対する要望・提案や辛口のご意見等をお待ちしております。
 ※11月26日(木)、東京で「読者交歓パーティー」を開催します。日頃、なかなかお目にかかることのできない読者のみなさまと親しくお話しを交わしたいと思っております。読者にとっても投句欄のライバルや選者の先生方にお会いできるチャンスでもあります。お誘い合わせのうえ一人でも多くご参加くださいますようお待ちしております。

2009年11月号より
 「文學の森」を興して満七年目となる。当初は三年も経ったら誰か若い人に後を継いでもらうつもりで始めたが、赤字経営から脱却できないまま今日に至っている。今となってはこの仕事が私のラストステージだと考えている。最後の仕事という意味だけでなく人生の締めくくりとしてこの仕事をやりとげたいと心に決めている。社員十九名。労働条件も職場環境も決して恵まれてはいないが、全員黙々と頑張ってくれている。深夜、編集部に電話をするといつも必ず誰かが残業している。そんな努力が実ってか、ことしになってから本誌の販売部数が毎月確実に伸びている。目標を決めて肚を据えたら零細出版社の経営もそれなりに楽しいもの。とは言っても個人の体力には限界がある。「文學の森」をいつ誰にバトンタッチするか。俳句結社と俳句出版社は似て非なるもの。だが組織の継続継承の難しさはどこか相通じるものがあるかもしれない。今月号は「結社継承」について考察した。

2009年10月号より
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
三好達治の有名な二行詩である。この詩は蕪村の墨画「夜色楼台雪万家図」の讃として生まれたというエピソードが、七月、NHKの『日曜美術館』という番組で放送されたのでご覧になった読者も多いだろう。実は、この話を初めて世に紹介したのは山本健吉である。昭和五十九年、毎日新聞社刊『蕪村画譜』という画集の序文で次のような裏話を書いている。三好達治と親しかった俳人の石原八束が訪ねて来たおり「三好さんは、あの詩は蕪村の『夜色楼台雪万家』というのがあるでしょう。あれだって言うんですよ」という話を洩らしたというくだりがある。もし、石原八束が山本健吉に話していなかったら、この逸話は永久に人々に知られることがなかったかもしれない。それにしても三好達治の詩のなんと美しくも哀しいことよ。現代俳句が忘れて久しい原初の“愛”が胸をうつ。抒情俳句の復興を願って特集を組んだ。

2009年9月号より
 もはや戦後ではない…… この言葉は、1956年の経済白書のなかで使われ流行語になった。日本の経済成長はその後も続き、世界に冠たる経済大国となった。敗戦による荒廃と飢餓の記憶は当時を知る世代の減少とともに忘れ去られようとしている。だが文学はあの大戦がもたらした悲劇を永遠に忘れてはならない。角川春樹編『現代俳句歳時記』には「敗戦忌」について「戦争の過ちを繰り返さぬようその体験を後世に伝え、平和への誓いを新たにすべき日」とある。昨今、憲法の見直しと軍備力増強が声高に言われている。8月号を敗戦忌特集とした所以である。

2009年8月号より
 晩年の加藤楸邨は「寒雷」の会員の中から3年に1回、新しい同人を推挙した。その人数はわずか4、5名。しかも同人会の幹部が進言しないと4年も5年も新同人を推挙しないこともあった。「寒雷」に入会して30年を越すのにどうして自分は同人になれないのか、と楸邨に直談判に行った猛者もいたという。同人に推挙された者は翌月から楸邨の選を受けることはできない。「これからは自分の思う道を自由に歩みなさい。たとえ野垂れ死にしようとも私はいっさい関知しません」というのが楸邨のはなむけの言葉であった。その楸邨門から多様な俳人が育っていった。これを「楸邨山脈」という。7月3日は楸邨忌。

2009年7月号より
 俳句総合雑誌に載っている俳句が面白くないというご批判をいただくことがある。俳句雑誌の俳句が面白くないと言われると、はたと考え込んでしまう。寿司屋の寿司が不味いと言われるようなものである。面白い、面白くない。美味しい、美味しくないという意見は個人差もあるので、一概には言えないが、雑誌発行人としては、思わず膝を打ちたくなるような新鮮なねたの俳句に巡り合いたいと願うこと切である。

2009年6月号より